「和」は、人と人をつなぐ言葉だったはずです
日本では、何かにつけて「和を大切にする」と言われます。
争わない。空気を乱さない。相手に合わせる。波風を立てない。そうした態度は、たしかに社会を穏やかに保つ知恵でもあります。
けれど最近、この「和」という言葉が、少し違う使われ方をしているようにも感じます。
本来の和は、人と人が向き合い、互いを思いやり、場を整えるための感性だったはずです。ところが今は、都合の悪いことを見ないこと、面倒なことに関わらないこと、誰かがやってくれると待つことまで、いつの間にか「和」の中に紛れ込んでいないでしょうか。
争わないことと、何もしないことは同じではない
道にゴミが落ちている。自転車が倒れている。ゴミ袋が破れて、中身が道に散らばっている。
そんな場面に出会っても、多くの人はそのまま通り過ぎます。もちろん、誰にでも事情があります。急いでいる日もあります。子どもを連れていて、触らないほうがよいと判断することもあります。
だから、通り過ぎる一人ひとりを責めたいわけではありません。
ただ、誰も動かないことが当たり前になった社会は、少しずつ弱っていきます。誰も怒鳴らない。誰も争わない。けれど、誰も整えない。そこにあるのは平和ではなく、静かな放置かもしれません。
子どもは、大人の「見ないふり」も見ています
子どもと一緒に歩いていると、私たちは思った以上に見られています。
困っていそうな人を見たときに、どう反応するのか。危ないものを見つけたときに、どう動くのか。おかしいと思ったことを、何も言わずに通り過ぎるのか。
子どもは、大人の言葉だけでなく、大人の沈黙からも学びます。
和の精神が本当に人と人をつなぐものなら、そこには小さな行動があるはずです。声をかける。知らせる。拾えるものは拾う。危険なら無理をせず、通報する。できる範囲で場を整える。
それは立派なことではなく、暮らしを少しだけ守ることです。
和が、かたちだけのものにならないために
世の中は便利になりました。スマホがあり、通報手段があり、情報もすぐに共有できます。その一方で、自分の目の前の出来事には関わらない空気も強くなっています。
便利になったのに、手を伸ばさない。つながりやすくなったのに、目の前の人とはつながらない。そこに、現代の「和」の変質があるように思います。
和の精神を守るとは、ただ静かにしていることではありません。場を荒らさず、しかし必要なときには小さく動くこと。相手を責めず、けれど見て見ぬふりで終わらせないこと。
本当の和は、何もしないための言葉ではなく、人と人が少しずつ支え合うための言葉だったはずです。
もし今、その意味が薄れ、かたちだけが残りつつあるのなら。私たちはもう一度、「和の精神」とは何だったのかを、暮らしの中から問い直す必要があるのではないでしょうか。