コラム

遊びと痛みが育てる情操教育

― 衝動を制御する力は、痛み・摩擦・失敗の経験から育つ ―

「なぜ、普通に見えていた若者が、突然人を傷つけるのか」。その違和感は、個人の性格だけでは説明しきれません。痛み、摩擦、失敗、怖さ。成長の途中で本来出会うはずだった小さな経験が薄くなったとき、人は自分の衝動を止める練習をどこで身につけるのでしょうか。

このコラムでは、凶悪事件を単なる個人の異常としてではなく、家庭、学校、遊び、SNS、ゲーム環境まで含めた「育ちの構造」の問題として考えます。

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「なぜそんなことをしたのか」だけでは、次の事件は防げません。
問うべきなのは、「なぜ彼らは、そこまで育ってしまったのか」です。

1.「普通の若者」が突然壊れるという違和感

凶悪事件が起きるたびに、私たちは加害者に対して「もともとおかしかったのではないか」と考えがちです。 しかし現実には、周囲からはごく普通に見えていた若者が、突然、暴行や殺傷に及ぶ例が少なくありません。

ここで考えるべきなのは、「特殊な人間の問題」として片づけてよいのかという点です。 むしろ見なければならないのは、普通に見える若者の中に、 衝動を抱えたまま成長し、それを処理する術を持たない層が広がっているのではないか、ということです。

問題は「異常な人がいた」ことではなく、「衝動を抱えたまま普通に育ってしまう構造」があることです。

2.人を傷つけることの実感が薄いまま育つ

他人を傷つけてはいけないという感覚は、道徳の文章を読んだだけでは身につきません。 本来それは、痛みを受けた経験、悔しさを味わった経験、失敗して関係が壊れた経験の中で育っていくものです。

転んで擦りむく。叩かれて痛い思いをする。喧嘩で負ける。仲間外れにされて苦しい思いをする。 こうした経験は、決して快いものではありません。しかし、だからこそ 「これをされたら相手は苦しい」「ここで止まらなければ危ない」という感覚の基礎になります。

逆に言えば、身体的な痛みも、対人関係の軋みも、できるだけ排除された環境で育つと、 人を傷つけることへの実感が弱いまま成長する危険があります。

痛みの経験は、単なる苦労ではなく、「加減」を知るための土台でもあります。

3.身体の痛みと、心の痛みは別ではない

身体の痛みを知ることと、心の痛みを理解することは、まったく別のものではありません。 どちらも「自分の内側に生じた苦しさ」を認識し、それをどう受け止めるかという経験に支えられています。

そのため、身体的な痛みや不快感をほとんど経験しないまま育つと、 他人の苦しみを想像する力も、必ずしも強く育つとは限りません。 そしてその延長に、拒絶された苦しみ、怒り、執着といった感情を 自分の中で処理できない弱さが現れることがあります。

ストーカー事件や交際相手への過剰な加害の背景には、 「振られた苦しみ」や「否定された痛み」をうまく処理できず、 相手への攻撃に変えてしまう未熟さがあるように見えます。

人の心を傷つける前に、自分の痛みを受け止める力が育っていなかったのではないか。

4.ゲームとSNSが広げる“無痛の世界”

現代の若者は、以前よりも長い時間、「無痛の世界」に触れています。

ゲームでは、何度失敗してもやり直せる。相手を攻撃しても、画面の向こうに現実の苦しみは見えない。 リアルに近い描写であればあるほど、逆に「人にダメージを与えること」への感覚が麻痺していく面があります。

SNSも同じです。短い言葉を投げるだけで、相手の表情は見えない。泣いている姿も、沈黙も、怒りも見えない。 その結果、人にぶつけた言葉の重さを実感しにくいまま、刺激の強い言葉がエスカレートしていきます。

もちろん、ゲームやSNSそのものが悪だと言いたいわけではありません。 問題は、それらが日常の大部分を占めるようになったとき、 現実の痛みや他者の表情に触れる機会が薄くなることです。

無痛の世界に長く浸かるほど、現実の痛みや重みは、頭では分かっていても身体では分からなくなります。

5.何が成長過程に足りなかったのか

ここで問うべきは、「加害者をどう罰するか」だけではありません。 その前に、成長過程で何が足りなかったのかを見なければ、同じことは繰り返されます。

足りなかったものの一つは、軽い失敗や小さな痛みを通じて、 自分の衝動にブレーキをかける訓練です。 失敗しないように先回りされ、危ないことは全て避けさせられ、 トラブルはすぐに大人が回収する。その環境は安全ではあっても、 「自分で自分を止める練習」を奪います。

もう一つは、他者の苦しさを具体的に想像する訓練です。 家族の中での我慢、友人との衝突、叱られる経験、仲直りする経験。 こうした日常の摩擦の中で、人は自分の感情だけが世界の中心ではないと学びます。

しかし現代は、摩擦を避ける方向に強く傾いています。 その結果、「傷つけたらどうなるか」を実感する前に、 「自分が傷ついた」と感じた怒りだけが肥大化しやすくなっています。

守られすぎた成長過程は、時に「衝動を止める力」まで細らせてしまいます。

6.情操教育とは、やさしさを教えることではない

情操教育というと、やさしい言葉を学ぶこと、仲良くすること、思いやりを持つこと、といった 柔らかなイメージで語られがちです。しかし本質はもっと厳しいものです。

自分の怒りを持て余したときに、それを相手にぶつけずに済ませること。 拒絶されたときに、その痛みを受け止めてなお壊れないこと。 苦しみを苦しみとして認め、他者に転嫁しないこと。 これらもまた、情操教育の中心にあるべき力です。

つまり情操教育とは、「きれいな心を育てる」ことではなく、 人間の中にある衝動や未熟さを前提に、それをどう扱うかを学ばせることでもあります。

本当に必要なのは、優しさの理想論ではなく、衝動を制御する現実的な教育です。

7.いま必要なのは「危険をなくす教育」ではなく、「危険を扱える教育」

子どもを危険から守ることは大切です。けれども、危険をすべて遠ざけるだけでは、子どもは危険との距離感を学べません。 本当に必要なのは、転ぶ、ぶつかる、失敗する、気まずくなる、仲直りする、といった小さな経験を、取り返しのつく範囲で重ねられる環境です。

これは、昔に戻れという話ではありません。現代の安全基準を保ちながら、子どもが身体と心で「加減」を学ぶ場を、学校、家庭、公園、地域の中にどう設計し直すかという話です。

SNSやゲームの世界で傷つける言葉や攻撃性に触れる時間が増えたからこそ、現実の相手の表情、沈黙、痛み、怒り、悲しみに触れる経験の価値は、むしろ高まっています。

安全な社会とは、痛みを完全に消す社会ではなく、痛みから学び、他者を傷つけない力を育てる社会です。

8.まとめ

普通の若者が起こす暴行や殺傷を、「理解できない」で終わらせてはいけません。 理解できないままにしておく限り、社会はまた同じ衝動を育ててしまうからです。

人を傷つけることの重みを知る経験。自分の痛みを処理する経験。失敗や摩擦の中でブレーキを学ぶ経験。 そうしたものが抜け落ちたまま成長すると、怒りや執着は行き場を失い、 最終的に他者への加害という形で噴き出すことがあります。

だからこそ、今あらためて問うべきなのは、 「なぜ彼らはそんなことをしたのか」だけではなく、 「なぜそこまで育ってしまったのか」です。

若者の暴発は、個人の資質だけではなく、社会が育て損ねたものを映す鏡でもあります。

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